数々のドラマや映画に出演し、歌手活動をしていたこともある西田敏行さん。
シリアスな悪役からちょっとかわいいおじさんの演技まで幅広くこなすベテラン役者ですよね。
最近ではコメディタッチの演技が多くて、まわりをほっこりさせている西田敏行さんですが、実は幼いころは苦労人でした。
今回は西田敏行さんの幼少期から役者を目指すまでの経緯を調べてみたので、気になる方は見てみてくださいね。
西田敏行さんの生い立ち
西田敏行さんの苦労した幼少期からの生い立ちを調べました。
西田敏行さんは幼くして伯母夫婦に預けられる
西田敏行さんは福島県に生まれます。
何事にも動じず素早く行動してほしいとのことでお父さんがつけた名前なんだそうです。
西田敏行さんのお父さんとお母さんの歳の差は実に31歳だったそうで、お母さんが21歳お父さんが52歳の時の結婚。
西田敏行さんのお母さんが西田敏行さんのお父さんのことをすごく好いていたようです。
そんな仲良しの夫婦でしたが、西田敏行さんが幼いころにお父さんは亡くなってしまいます。
お母さんは美容師として働き、女でひとつで西田敏行さんを育てますが、西田敏行さんが、5歳になるころ、お母さんが再婚。
そのタイミングで西田敏行さんはお母さんの姉・伯母夫婦の家に預けられることに。
西田敏行さんが預けられた理由
西田敏行さんの実の母は敏行さんの父が亡くなった後蒲田の実家を頼り上京します。
お母さんは上京後美容師の勉強を必死で頑張り、実家の一角に美容室を設けそこで敏行さんと暮らします。
お母さんは今後1人で敏行さんを育てていけるかどうか不安に思っていたところ、いろいろと相談していた男性がいました。
その人も前妻との間に男の子がいて、ちょうど敏行さんと同じ年だったことから急速に仲が深まり結婚を考えるようになります。
しかしお母さんはすでに跡取りがいるところに敏行さんを連れて再婚していいかどうか悩みます。
それをお母さんのお姉さんに相談したところ、私でがよければ敏行さんを育てるわよとお姉さんが言ってくれたそうで、お母さんはその言葉に甘え、敏行さんをお願いしたんだそうです。
それ以降敏行さんがお母さんと一緒に暮らすことはなかったそうです。
お母さんはその後再婚相手と添い遂げ娘さんを設けています。
西田敏行さんと半分血のつながった妹さんですね。
母親の再婚でまだ5歳なのに親戚に預けられるってなんでなのでしょう?今と違っていろいろ事情もあるんでしょうが、なんか寂しいですよね。
実のお母さんも折に触れ敏行さんを預けたお姉さんから敏行さんのことは聞いていて陰で見守っていたそうです。
西田敏行さんの貧しかった子供時代
養父である叔父は郡山市役役所に勤めていましたが、中途採用で市役所に努めたので月給は低く、生活は厳しかったそうです。
西田敏行さんたちは神社の社務所にすんでいたそうですが、社務所を住み込みで管理する代わりに家賃はただにしてもらっていたそうです。
養父につれていってもらった映画で役者に興味
生活は決して楽ではなかったようですが、敏行さんの友達が遊びにくれば養母は喜んで豪勢なおやつを出したり、養父は少年時代の西田敏行さんを休みのたびに映画に連れて行ってくれたりしたみたいです。
主に時代劇を見ていたそうですよ。
それをきっかけに西田敏行さんはチャンバラ映画に夢中になり、自分もいつかスクリーンに映る人になりたいと考えるようになっていきます。
養母と養父は陰で節約につとめ、敏行さんにはふびんな思いをさせたくないと考えていたようですね。
西田敏行さんは演劇に憧れる少年だった
西田敏行さんは映画好きの養父の影響で小学校の時に演劇クラブにはいります。
役になり切り、時にはアドリブを加えて友達を喜ばせたりすることに楽しさを覚えていったようです。
西田敏行さんは中学に入るとさらに演劇に興味を持ちます。
そして両親に役者になりたいことを伝えます。
両親は敏行さんの夢をなんとしても応援しようと言ってくれたそうです。
しかし、当時は男子はスポーツという風習が強く、演劇部には女子しかいなかったため入部はしなかったそうです。
本当にやりたいことができずに悶々とした中学時代を過ごしたようです。
東京の高校で演劇に参加
西田敏行さんはこのままでは福島弁がしみついてしまい標準語が話せなくなるんじゃないかと恐怖を抱いたそうです。
俳優になるなら標準語は必須。
意を決して両親を説得し、中学を卒業と同時に養母と一緒に上京し、明治大学付属中野高等学校に入学。
男子バレー部に所属しましたが、演劇部の女子に頼まれて、男役として協力することになります。
大学を中退して劇団を立ち上げる
1966年に明治大学に入学した西田敏行さんは日本演技アカデミー夜間部に入り本格的に役者の道へ進みます。
そして同年大学を中退し昼の部へ異動しました。
その後、西田敏行さんは1967年に日本演技アカデミーを卒業し、劇団「シアター67」を結成。
しかしその劇団は失敗してしまいます。
敏行さんが大学中退後、市役所を退職した養父も上京し3人で暮らすことになりました。
そのころ西田敏行さんはお金を稼いでくることもなく親のすねをかじってばかりの生活。
しかし、養母も養父もそんな状況でも敏行さんを喜んで支えていたようで、なんとしても敏行さんの夢をかなえるんだという思いが強かったようです。
西田敏行さんの俳優デビュー
劇団をつくり失敗したそのころ、「渥美清の泣いてたまるか」でテレビ俳優としてデビューを飾りました。
1968年には青年座養成所に入り1970年には卒業。
青年座座員となり舞台の経験などもつんでいきます。
そしてシリアスとコメディの両方で存在感を発揮できる俳優になっていきます。
歌手として紅白歌合戦にも出場
西田敏行さんは歌手活動も精力的に行っていきます。
最も有名なのは「もしもピアノが弾けたなら」。
大ヒットになり数々の歌番組や、NHK紅白歌合戦にも出場しました。
ちなみにNHK紅白歌合戦で司会、歌手、審査員、応援(ナレーションを含めると5パターン)全てで出演経験があるのは西田敏行さんだけなんだそうですよ。
西田敏行さんのプロフィール
西田敏行さんのプロフィールです。
名前 | 西田 敏行(にしだ としゆき) |
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生年月日 | 1947年11月4日(76歳没) |
血液型 | B型 |
身長 | 166㎝(公称)168㎝/75㎏ |
出身地 | 福島県 |
職業 | 俳優・歌手・司会・タレント |
所属事務所 | オフィスコバック |
まとめ
西田敏行さんは幼いころにお父さんが亡くなり、5歳で養子にだされてしまいました。
養父のもとでは生活が貧しく大変でしたが映画につれていってもらうこともあり、それがきっかけで役者に興味を持つことになります。
高校で上京してからは徐々に演劇に携わることになり大学に入学すると本格的に役者の道を歩みだしました。
ドラマで見る西田敏行さんはおもしろくて明るくて優しいイメージですが、幼くして本当の母親と離れて暮らすという大変なご苦労をされていたんですね。
西田敏行さんの日本のドラマ界への貢献度ははかりしれませんね。